すれ違いのココロ2
昨日のクルマでのすれ違いの話と同じように、道を歩いているときに正面から人が歩いてきたら、どうやってかわそうかと一瞬考えますよね。
早めに左側に寄っておこうとか、とりあえず相手の出方を待ってからにしようとか。
お互いが同じようなことを、近付くまでの何十秒かの間に考えて双方ぶつかることなくすれ違えるわけです。
ところがここ数年、もしかしたら10年ぐらい前からかもしれませんが、すれ違うときに上記のような心の中でのやりとりを一切拒否するかのように全く自分から道を譲ろうとしない人が増えているような気がします。
いわゆるチンピラとかヤンキーとか言われるような人たちが相手を睨みつけて進路をあけさせるというような種類のものではなくて、見た目は普通の人が、なんと言うか相手の存在そのものを心の中から消し去っているかのごとく表情を変えずにどこまでもまっすぐ近づいてくるのです。
“衝突”を回避するためにこちらは進路を譲るしかないのですが、どうにもやりきれない気持ちが残ります。
こういう人達は今日たまたまこういう行動をとったのではなく、ヒューマンタイプとして出来上がってしまっていて“更生”は難しいのではないでしょうか。
勝手に推測しますが、外を歩いているようなとき、このような人の心の中では自分が直接知っている人間以外は、まるで映画のスクリーンに写っている、現実にはそこに存在していない人ととして扱われているのではないかと思うのです。
そこにいない人だから気にかける必要などないし、いざ実際に近づいてきてもスクリーンの向こうの人間(映像)に対して自分から回避行動をとるなんていう発想そのものがまずもって起こらないのです。
電車などで目の前30センチのところに他人の顔があってもケータイで大きな声で話をする人や、いったん「二人の世界」に入ってさえしまえば「お願いだから部屋の中でやって下さいよ」と言いたくなるようなことを人前でやっちゃうバカップルなんかも、きっと目の前に“誰もいない”からそれができるのでしょう。
これらのような 対人関係の「スクリーン化現象」 (たった今命名^^;)を感じたことがあるのは決して私一人ではなく、イメージやニュアンス、程度の違いはあれど似たような感覚を抱いたことのある人は少なくないと思うのです。
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これを書かずにはいられない気持ちにさせてくれた二つのサイトのエントリー。
■道を譲らない人が多すぎる(女医繭奈のお気楽な医療日記)
■傘を垂直に持てない人(高樹洸のWebColumn)