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2005年08月26日

セルフなんだから

私がセルフスタンドに行く理由の一つは、確かに単価がいくらか安い(ような気がする)というのもあるのですが、それ以上の理由として、自分にとって必要のない会話を店員相手にしなくてもよいということがあるんです。

通常のスタンドだと、オイルの交換、ウォッシャ液の補充、水抜き剤の使用他を給油中に店員から勧められるのですが、個人的にそういうのは自分なりに管理して必要な時期に自分の判断でやっているので聞かれること自体正直とても億劫なのです。

だからこそ私はセルフを選んで行くのですが、今日行ったところはセルフのくせして店員がたくさんいて、あれこれ勧めてくるのでがっかりでした。

給油口のフタの裏に何年も前にどこかのスタンドの店員に勝手に貼られた「前回の水抜き剤投入日○月○日」と書かれたシールを目ざとく見つけて「そろそろ水抜き剤を入れる時期ですね」なんて言われたりして脱力。

給油作業を全部自分でやって、その上あれこれ勧められるんだったら、いったい何のためにセルフを選んで入ったんだか分からなくなります。

私と同じような感覚でセルフを利用する人は決して少なくないと思うんです。
給油だけじゃ商売が成り立たないというスタンド側の事情も分からないではないですが、客の都合も少しは考え、もう少し賢く商売してほしいと、私自身も自分の都合でそう思うのでした。

2005年08月19日

今日の侘び寂び

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20メートルかそこらの距離、行って帰ってくるのがそんなに億劫なものなのかねぇ……。

っていつもこういうのを見るたび思うんだけど、近頃はカートを荷物がたくさんあるから使うんじゃなくて、そこにカートがあったから使ったってだけの人が多くなりその分戻しに行かない人も増えたんじゃないかと思うんだけどどうなんだろ。

良い悪いじゃなくって、そこにあるから使う。使い終われば用無し。それがサービス。放置を黙認するのが店としての客へのサービス。

お客様は何様ですか?

2005年08月09日

諦めが肝心

d050809.jpg

片側2車線の交差点手前。赤信号で停止した直後の写真です。
私がいる左側車線が左折と直進。隣の車線が右折専用の車線になっています。

ここは、信号が赤に変わると同時に右矢印が出て右折車線上の車を流すパターンになっているのですが、右折車線を走ってきた黒っぽいミニバンが、赤信号で右矢印が出ている状態のところを右折せずに無理矢理直進車線の先頭にズルズルと進み出てこの写真のようにして止まったんです。
直進車線の先頭と言っても、もう車体の半分近くが交差点の中に入ってしまっており見るからに危ない状態です。

おそらくこのミニバンは初めからこんなことをわざとしようとしていた訳ではなく、自分の走っている車線は直進車線であると勘違いしていて、交差点手前まで来てはじめてそうでないことに気づいて慌ててこんな行動をとってしまったのだと思います。


進路・進行方向を間違えてしまったら、とりあえず標識や信号に従って進むしかありません。いくら行きたくない方向であったとしてもその場の交通を乱してまで自分の通行を優先させて、それで万一事故を誘発してしまったりしたら取り返しがつきません。

道を間違えたらどこかでぐるっと一周してまた戻ってくればいいんです。
自分で間違えておいて「時間がない」とか「初めての道だったから」なんて、理由にもなりません。
周りのクルマの“思いやり”に期待するのも間違っています。その場のクルマの全ドライバーが共通認識を持つなんて土台不可能なのですから。

何ごとも諦めが肝心。諦められないドライバーは社会の迷惑でしかありません。

2005年08月01日

すれ違いのココロ2

昨日のクルマでのすれ違いの話と同じように、道を歩いているときに正面から人が歩いてきたら、どうやってかわそうかと一瞬考えますよね。
早めに左側に寄っておこうとか、とりあえず相手の出方を待ってからにしようとか。
お互いが同じようなことを、近付くまでの何十秒かの間に考えて双方ぶつかることなくすれ違えるわけです。

ところがここ数年、もしかしたら10年ぐらい前からかもしれませんが、すれ違うときに上記のような心の中でのやりとりを一切拒否するかのように全く自分から道を譲ろうとしない人が増えているような気がします。

いわゆるチンピラとかヤンキーとか言われるような人たちが相手を睨みつけて進路をあけさせるというような種類のものではなくて、見た目は普通の人が、なんと言うか相手の存在そのものを心の中から消し去っているかのごとく表情を変えずにどこまでもまっすぐ近づいてくるのです。

“衝突”を回避するためにこちらは進路を譲るしかないのですが、どうにもやりきれない気持ちが残ります。
こういう人達は今日たまたまこういう行動をとったのではなく、ヒューマンタイプとして出来上がってしまっていて“更生”は難しいのではないでしょうか。


勝手に推測しますが、外を歩いているようなとき、このような人の心の中では自分が直接知っている人間以外は、まるで映画のスクリーンに写っている、現実にはそこに存在していない人ととして扱われているのではないかと思うのです。

そこにいない人だから気にかける必要などないし、いざ実際に近づいてきてもスクリーンの向こうの人間(映像)に対して自分から回避行動をとるなんていう発想そのものがまずもって起こらないのです。

電車などで目の前30センチのところに他人の顔があってもケータイで大きな声で話をする人や、いったん「二人の世界」に入ってさえしまえば「お願いだから部屋の中でやって下さいよ」と言いたくなるようなことを人前でやっちゃうバカップルなんかも、きっと目の前に“誰もいない”からそれができるのでしょう。


これらのような 対人関係の「スクリーン化現象」 (たった今命名^^;)を感じたことがあるのは決して私一人ではなく、イメージやニュアンス、程度の違いはあれど似たような感覚を抱いたことのある人は少なくないと思うのです。

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これを書かずにはいられない気持ちにさせてくれた二つのサイトのエントリー。
道を譲らない人が多すぎる(女医繭奈のお気楽な医療日記)
傘を垂直に持てない人(高樹洸のWebColumn)